クラシックCD聴き比べ ~ Classic CD Memos ~

クラシック音楽のCDを中心に演奏者への敬意を込めて、つたないメモを書いています。

ムソルグスキー 展覧会の絵 ストコフスキー(65)

2015.03.07 (Sat)
展覧会の絵 ストコフスキー
ストコフスキー/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(65、DECCA)はストコフスキー版。
私は、この編曲版も愛聴している。
90年代以降ストコフスキー版が再評価されて優れた演奏が出てきているのは喜ばしい限り。
そもそもラヴェル編曲のものはクーセヴィッキーが暫く演奏の独占権を持ったこともあり
1939年ストコフスキーが独自に編曲せざるを得なかった。
しかし、ストコフスキーが編曲に乗り出した動機はそれだけではなかった。
ラヴェルによって明るく華麗な色調になった「展覧会の絵」をもう一度原曲の持つ
スラブ的側面を復活させようとしたものだ。フランスの風景の「テュイルリーの庭」や
「リモージュの市場」を割愛していることからもそれは窺える。

またラヴェル版の3管編成をさらに拡大した4管+オルガンで巨大さもあるが、
独自の深みを持った局面も出現することに注目したい。
「ストコフスキー」=キワモノと片付けてしまうのは早計だ。
大騒ぎの場面でなく、しっとりした情感の表出に注目すべきだ。

録音はロンドンでのセッション。20チャネル録音を最後ステレオミキシングした
フェイズ4録音。コントラストがきつく劇画タッチの音作りが気になるが
この曲ではよしとしよう。しかし最強音では濁りが出ているのが残念。

「プロローグ」は弦で始まり木管に受け渡されまた弦に戻る。
開始からしてラヴェルの金管主導と全く違う。テヌートのかかった
このメロディは軽やかでも晴れやかでもない。
他の作曲家による編曲も金管でスタートするものはなく、
むしろラヴェルのそれが意表を突いたものというべきなのだろう。
「小人」も何やら大袈裟ではある。
この泥臭い怪奇趣味とラヴェルの洗練はまるで異なる。
しかし、ムソルグスキーのピアノ原曲の不気味さを聴いてしまうと
どちらが本筋なのかを白地で検討する余地はある。

「第二のプロムナード」も弦のさざ波が妖気を漂わせる。
「古城」はこの編曲の白眉。ラヴェルのアルトサックスは斬新だが、
こちらはイングリッシュホルンで担当させる。
むしろここではその寂しげな音色に説得力があると思わせる。
逆に言えばラヴェルの楽器使用方がラテン的で独特ということを感じる。
そしてこの曲の後ろ髪を惹かれるような、
闇に吸い込まれるような終結は強烈な印象だ。
「ビドロ」はラヴェル版と大きく異なる。
遠くから牛車が近づいてくる様子のラヴェル版と最初からフォルテで
苛立つようなスピードでホルンが苦悩の雄叫びをあげるストコフスキー版。
後者がR=コルサコフの改変を経ていない原曲に基づく編曲だけに
ムソルグスキーに近い心象風景といえるかもしれない。

「殻をつけた雛の踊り」はこちらもなかなか描写的。
最後の雛の悲鳴が一回多い。
「サミュエル」ではシュミュイレを表すパーツが弱音器つきトランペットと
なるのがラヴェルと同じ。ストコフスキーもラヴェルの楽器使用法の
巧さを摸したのだろう。
「カタコンブ」は騒然とした物々しさ。
「死者への語り」ではラヴェルと使用楽器が異なり弦楽合奏を主体に
寂しさと癒しを表出。ここもストコフスキー版の出色の場面だと思う。

「バーバ・ヤガ」はテンポやディナミーク、楽器が慌しく変転し漫画チックとも
言える極端な表情。嵐の中に魔女が飛び交う。
「キエフの大門」はラヴェルの煌めく管弦楽手法は圧巻で
ストコフスキー版はその点では負けるが大きな仕掛けをしている。
それは豪壮に鳴り響く部分ではなく、音楽が鎮まった時にまたもや
弦楽のみで癒しのメロディをぐっとテンポを落として奏する場面。
これは実に効果的だ。
終結はとにかく楽器を突っ込んで極彩色の壮大さを演出するが、
ここではラヴェル版のほうがやはり自然なパワーを持っていると感じる。

私はストコフスキー編曲版には先入観があった。
どうせ底の浅い編曲だろう、と。
しかし今ではラヴェル版とは全く違う価値があると思っている。
そして実はそのように思うようになったのは
本盤ではなくて後のナッセン盤からだ。
しかし、ストコフスキーの果敢な挑戦はやはりスペシャルだ。

27:12
演奏  挑S    録音 87点

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